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06 October

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25 March

「何が言いたいかわからない」と言われても(巫女物語、ネタバレあり)

自分の作ったゲームのレビュー欄に、「作者は何が言いたいのかわからない」と
書かれたことがある。無論、習作たる巫女物語のことである。
「何が言いたいのかわからない」と言われても、「別に特に言いたいこともない」のだから
何も言いようがない。
「言いたいこともないのにメッセージ性のありそうな作品を作ってもいいのか」と
言われそうであるが、その意見に対しては「別に言いたいことがなくても
メッセージ性のありそうな作品を作ってもいいんじゃない」と答えるだろう。

巫女物語は人身御供、つまりは生贄のならわしをテーマにした作品である。
人を生贄に捧げるならわしのことを人身御供という。
巫女物語は、この人身御供という生々しい祭事をテーマに据えた。

しかし、いや、だからこそ「人を生贄に捧げることは悪である!」だとか、
そんな社会的に役立ちそうな道徳を主張するつもりはない。
今も昔も、そんな社会的な正義を主張するために作品を作ったことはない。
これからも高尚な作品を作るつもりはないし、高尚な作品を作るだけの知識もない。

人身御供という祭事が倫理的に正しいかどうかは別にして、もっと単純に、
人身御供というものがどのようなものであったか、ということを
ゲームを通して表現したかっただけなのである。

人身御供を表現する過程で、巫女達の苦悩、つまり生贄の当事者たる
巫女達の思い悩む様子が描写され、巫女を取り巻く人々の様々な態度が
描写されいった、ただそれだけなのである。

だから、「作者は何が言いたいのかわからない」と言われても、
「別に特に言いたいこともない」のだから、何とも言いようがない。

しかし全部が全部、「別に特に言いたいこともない」のかと問われれば、
そうではない。
特にマドカと母親の親子関係については、個人的に相当な思い入れがある。
母親からのろまやドジと言われ続け、厳しい戒律にがんじがらめにされながら
育ったマドカには、同情せざるをえない。

マドカは自らに課せられたあまりに辛く過酷な運命に抗おうとするが、
彼女とて年端もいかない少女である。
悲壮な運命に抗うことができず、自らの人生を悲観し、
運命に呑まれそうになることもある。
「自分が死ねば、大地震は止まる」と、思いつめる日もあれば、
二十年前に起きた地震の惨劇を目の当たりにすると、自責の念に駆られ、
自らの運命を受け入れ、その身を手放したくなる日もある。
もちろん、自暴自棄になってしまう日もある。
それは、マドカがまだ幼さの残る年端もいかない少女だからである。
 上辺だけを見れば、マドカは立派な人間であると周りからは思われているかもしれないが、
そんなことはないのである。
マドカは少女らしく、いや、マドカらしく、悩みに悩み、
時に思い詰め、そしてデュークやマルメロといった旅で出会った仲間に
励まされながら、前に進もうとするのである。

マドカには幸せになって欲しい。
だけどマドカは、生まれ育った環境のせいでしばらくの間は
幸せにはなれないのだろうと思う。
だけどいずれきっとマドカは幸せになるのだろう、という深い確信が
胸の奥底にある。
それは、親心のようなものなのかもしれない。
いずれにせよ、マドカには幸せになって欲しい。
そう願うばかりである。
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